余市でおこったこんな話「その247 かるた大会」
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「「もうだめだね。」「ぜったい勝てないね。」といい合いました。でも真剣にやりました。前半は勝っていたようでしたが、負けると思っていたせいか、後半になると読む前に手が出るという感じで、相手チームにすっかりやられてしまいました。」
昭和60年代、沢町小学校の6年生が書いた作文です。作文からは町内かるた大会に向けた練習と大会当日の緊張が伝わります。大会前、沢町小の子どもたちは児童館が練習場所でした。当時は児童館でのかるた大会もありました。
練習では足りないと自分たちが思ったのか、指導についた大人が思ったのか、指導者のお宅で追加練習をした子どもたちもいたそうです。
「そしてかるたを教えに来ていたSさんの家でひき続きかるたを練習することになり、とるこつなどをいろいろと教えてもらいました。」このチームは3回戦まで順調に勝ち上がり、準決勝で、優勝候補とあたり、その時の緊張を伝えた様子が冒頭の作文です。
今年も町内小学生のかるた大会が行われました。使われたかるたは板製の取り札で、大小のくずし字がメリハリのある配置で書かれています。
下の句とりのルールは北海道独自のものといわれていますが、昭和のはじめには京都市内、同志社大学の新年交礼会の席でも行われていました。
「(…前略)元来奥様の故郷なる会津藩では古来歌可留多が流行したとの事で、奥様が大自慢であったからである。(…中略…)奥様一人を向ふに廻して五六人の書生が一団となって、戦ふのを常とした。とても奥様は上手で、いつでも五六人の者が負けたのである。」
奥様とは新島八重(にいじまやえ)さんのことです。同大は幕末の教育者で宗教家の新島襄(にいじまじょう)によって設立されました。新島の妻、八重さんは会津藩の砲術師範の山本家の出身で、NHKの大河ドラマで放送された「八重の桜」の主人公です。
新島は若くして亡くなりますが、未亡人となった八重さんは新島の遺志を継ぎ、同志社大の教育に作法教授として関わりました。前述の京都での八重さんは、かるた取りがとても得意で、読みも上手だったと同大の記録に残っています。
会津藩のかるたは、江戸時代のどこかの時点で紙製から木製(朴、ホウ)に替わりました。その材料は木工作業の際にでた端材を利用したという説があります。板かるたは明治時代のものが、山形、宮城、新潟の各県でも見つかっていることから、会津が発祥の地かどうかは定かではありません。
また、下の句とりのルールの起源や広がりははっきりしませんが、会津藩では複数人が向き合い、下の句とりのルールで、札をとった時には躍り上がって天井を叩いたりしていたと伝わっているので、北海道の様子と似ています。
会津藩は江戸時代から蝦夷地の警衛にあたり、明治になって青森県や余市町へ団体で入植し、屯田兵にも名を連ねました。下の句とりの板かるたに親しむ地域は北海道のほぼ全域、各地にあって、会津藩ゆかりの土地に色濃く残っているわけではなさそうです。会津で製造された板かるたが北海道へ持ち込まれ、それに慣れていた東北諸県の入植者が楽しんでいたものが、少しずつ広まったのでしょうか。
2月16日、定山渓で行われた全道かるた大会で、余市町から出場した登・黒川小チームが念願の一勝を勝ち取りました。おめでとうございます。

板かるた
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