余市でおこったこんな話「その240 空襲その2」
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太平洋戦争終結の年、アメリカ軍の戦闘機は7月15日に沢町方面に襲来しました。当時の水産試験場は東洋一の研究施設と言われていたために、標的となったといわれています(余市町でおこったこんな話その61)。
水産試験場付近に爆弾が投下され、人間や建物に向かって機銃が放たれた時のことを覚えていた方の証言がのこっています。当時、学生だったこの方が、余市中学校(後の余市紅志高校)に登校しようとして歩いていた時、シリパの方から戦闘機の爆音が聞こえました。大人たちが、当時ヌッチ川右岸の河口近く、崖の付近にあった防空壕に避難するようにと大きな声で呼びかけました。
「すごく心細かった。私の記憶では、およそ二〇~三〇人くらいの人が鮨詰めに隠れた気がします。時折り、爆弾が投下され、炸裂する音におびえて薄暗い壕の中でじっと耐えていました。隣に居た見知らない男の子と手を握り合い、抱き合っていました。」
「壕から薄目を開けて飛行機を見たら、低空飛行で、パイロットの姿がはっきり見えたのです。首に白いマフラーを巻き、目にはゴーグルの様なメガネを掛け、機銃掃射をしている様子を今でも決して忘れる事は出来ません。…中略… 機銃掃射、小爆弾の落下の様子、バラバラと落ち、その炸裂する音は想像を絶するものでした。」(大橋四朗さん「弔辞と戦争」『余市文芸』第36号)
ヌッチ川河口の水産試験場を襲った戦闘機のうち何機かが豊丘方面へも向かったそうです。
「…三階建ての水産試験場をねらったものらしいのですが、沢町郵便局のうらに一発と、岡田菓子店の軒下に一発の小型爆弾が炸裂しました。(略)山道(豊丘)へも数機向かって来ましたが、人々はりんごの木かげにかくれたり、家庭ではおし入れにもぐりこむのが精々、この時のためにと用意した砂袋、バケツ、火たたき、竹槍など何の役にも立ちません」
投下された爆弾が不発だったという幸運もありました。
古い写真を見ると、水産試験場の正面の柱が迷彩模様で塗装されていたようです。白黒写真なので何色なのかは不明ですが、攻撃の対象になると予想して準備されていたのかもしれません。
空襲された水試験場職員の方の証言がのこっています。
「七月一五日、丁度出勤時間のころ、米軍の艦載機グラマンの積丹沖の艦船に対する攻撃が始まりました。その時多分飛行士は試験場の建物が目に入ったのでしょう。何だろうかと向ってきたのです。暁部隊の兵士が前庭に掘ったタコ壺に入っていて銃で応戦したために機銃掃射がありました。そのうちの一発が二階にあった漁業部長の机付近に着弾したのです。この弾は部長机を貫通しました。」(辻敏さん『試験場物語』)
この日の空襲についての米軍側の記録では、爆弾投下の標的を“Water pump sta.Yoichi”と“Bridge,near Yoihi”と記しています。
ひとつめは意訳すると「揚水場」ですが、「水産試験場」という日本語の情報を米軍側が間違って解釈し、町内ではひときわ大きな建物だったので攻撃対象になったのでしょうか。
写真:迷彩柄に塗られた水産試験場
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